いかにして教えるか
最近、中学1年生に数学を教えている.
いやぁ、中学生ってかわいいものだ.特にまだ小学生だか中学生だかわからないようなコが制服着てるところを見ると、なんとも言えないような感覚が襲ってくる.このコたちも、かつての僕らのように、これから第二次性徴を迎えるんだろうな・・・男の子の場合、やっぱり銭湯とかのときは前を執拗に隠すんだろうな・・・とか、ついつい考えてしまう.いやぁ、懐かしい.今では前を隠すのが面倒でしょうがない僕にもそんな時代があったものだ.
と、それは置いといて、中学1年生の数学と言えば、それはそれは大事なトコロ.
算数から数学への転換期.
そんな大事なトコロを教えているわけなんだから、きちんと教えてあげなくちゃいけないのはモチのロンとして、もうひとつ重要なことはいかにして興味を持たせるかだと思う.
数学という学問は、中学生とかには無機的に見える、すなわち人間味が無いように思われる上、日常生活の役に立たないものだ.(と、僕は思っている.)
ここで、対比のために別の学問を、例えば文学を持ち出してみよう.
さて、文学はどんな学問だろうか.
文学も、数学と同じように日常生活の役に立たないものだろう.(文学部の方、ごめんなさい.)
けれど数学とは違って、人間味に溢れているように思われる.
なぜなら、文学で用いられる言語は人間が普段使う言語であり、また、そこに表現されているものは人間の感情なり思想なり、人間の心と深く結びついているものだからだ.確かに、文学は人間味に溢れている.
対して、数学はどうだろうか.
数学で用いられる言語は数式と人間が普段使う言語をミックスしたものであり、そこに表現されているものは人間の直観と論理的思考による産物だ.
これは人間味に溢れていると言えないのだろうか.
数学って、すごく人間らしいと思う.現代までの数学を造り上げたのは数学者という人間たちなのだから、それは当然のことだろう.
けれど、なぜ中学生たちには無機的なものと思われてしまうのか.
それは、数学の授業中に、数学者たちの姿が見えてこないからだ.
特に日本の数学教育の顕著な例として、ピタゴラスの定理を三平方の定理と言い換えている点にも見られるだろう.(ちょっと、こじつけだけど.)
フェルマーの最終定理の話や、n次方程式の解の公式の話、ピタゴラス教団の話などなど、数学に関連する面白い話はいっぱいあるのだから、それをもっと活用して、子どもたちが数学に興味を持てるように教えるべきだと僕は思う.
そういえば、ソフィー・ジェルマンという数学者はアルキメデスの話に興味を持って数学を始めたのではなかったか.